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武将ミニのぼり「佐々成政」
■ポールサイズH36.5cmx横棒長さ12.5cm
■旗本体サイズ約H27cmxW6cm ■旗素材:テトロン地 ■ポール:樹脂製 ■ポールはお客様組立商品 ■シルク捺染仕上 ■実際の商品は多少色が異なる場合がございます。 ※屋外用のぼり製作と同じ捺染法ですので、濡れても平気。 屋外でもお使いいただけます。 ※シルク印刷仕上ですので、ウラもバッチリ透けてます。 ※ポールなしの旗だけのご注文もOK!オプションでお選び下さい。 ◎武将メモ:佐々 成政は、織田信長に仕え、馬廻から戦功を重ねて頭角を表し、永禄10年(1567年)、黒母衣衆の一員に抜擢された。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊を率いた。天正3年(1575年)9月、織田信長は越前制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の軍団長とした。その与力・目付として成政・前田利家・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城とした。明智光秀征伐後の清洲会議において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、柴田方につく。賤ヶ岳の戦いには上杉景勝への備えのため越中を動けず、勝家の敗死後は、前田氏の寝返りや上杉家の圧迫もあり、娘を人質に出して剃髪する事で降伏し、越中一国を安堵された。天正15年(1587年)の九州の役で功をあげたことを契機に、肥後一国を与えられた。成政は、早速に太閤検地を行おうとするがそれに反発する国人が一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく、摂津国尼崎法園寺にて切腹させられた。享年53。
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