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武将ミニのぼり「井伊直政」(総赤)
■ポールサイズH36.5cmx横棒長さ12.5cm
■旗本体サイズ約H27cmxW6cm ■旗素材:テトロン地 ■ポール:樹脂製 ■ポールはお客様組立商品 ■シルク捺染仕上 ■実際の商品は多少色が異なる場合がございます。 ※屋外用のぼり製作と同じ捺染法ですので、濡れても平気。 屋外でもお使いいただけます。 ※シルク印刷仕上ですので、ウラもバッチリ透けてます。 ※ポールなしの旗だけのご注文もOK!オプションでお選び下さい。 ◎武将メモ:井伊 直政(いい なおまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第24代当主。上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩の藩主。さらにその後に近江国彦根藩の初代藩主。徳川氏の家臣徳川四天王の一人。自身が組織した井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名である。直政は家臣に非常に厳しく、少しでも戦で失敗をした者がいれば容赦せず処罰し、一軍の将となっても自ら先陣に立って戦うことを好むなど激烈な性格で、短所も多かった。そのため、戦の際に陣に留まって指揮を執ることはほとんどなく、筆頭家老である木俣守勝がその役目を果たしたという。「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた。関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。関ヶ原の戦いの後は西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和、山内一豊の土佐入国の援助、徳川氏と島津氏の和平交渉の仲立ち(直政自身は和平交渉が完全に終了する前に亡くなったので、その後の和平交渉の仲立ちの役目は本多正信に引き継がれた)などと言った戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力し、これらの功によって、石田三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられた。慶長7年(1602年)2月1日に、おそらくは長年の家康に対する奉公による過労と関ヶ原で受けた鉄砲傷が癒えないまま、破傷風が元で死去した。
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