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武将ミニのぼり「真田信之」
■ポールサイズH36.5cmx横棒長さ12.5cm
■旗本体サイズ約H27cmxW6cm ■旗素材:テトロン地 ■ポール:樹脂製 ■ポールはお客様組立商品 ■シルク捺染仕上 ■実際の商品は多少色が異なる場合がございます。 ※屋外用のぼり製作と同じ捺染法ですので、濡れても平気。 屋外でもお使いいただけます。 ※シルク印刷仕上ですので、ウラもバッチリ透けてます。 ※ポールなしの旗だけのご注文もOK!オプションでお選び下さい。 ◎武将メモ:真田昌幸の長男として生まれる。昌幸が武田氏に臣従したため、信幸は人質として過ごした。父昌幸が徳川家康に一時は臣従して上杉景勝軍と交戦するも、天正13年(1585年)、昌幸が沼田領を巡る家康からの要求を拒絶し、上杉に臣従すると信幸は父と共に徳川軍と戦う(第一次上田合戦)。昌幸は豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589年)には家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。家康は信幸の才能を高く評価し、家康は駿府城に信幸を出任させて本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、信幸に娶らせた。秀吉死後、慶長5年(1600年)に失脚していた五奉行の石田三成が挙兵する。父と弟・信繁は三成ら西軍に付いたのに対し、信幸は家康ら東軍に参加することを決め、徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では病気のために出陣できず、長男の真田信吉と次男の真田信政が代理として出陣している。元和8年(1622年)、信濃松代藩に加増移封され、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。真田家では後継者争いが起こり、長男の血統である真田信利が、次男の血統である真田幸道の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った。しかし信之も10月17日に死去した。享年93。
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