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武将ミニ軍旗「伊達政宗」
■ポールサイズH約22cmx横棒長さ12.5cm
■旗本体サイズ約H11.5cmxW10.5cm ■旗素材:テトロン地 ■ポール:樹脂製 ■ポールはお客様組立商品 ■シルク捺染仕上 ■実際の商品は多少色が異なる場合がございます。 ※屋外用のぼり製作と同じ捺染法ですので、濡れても平気。 屋外でもお使いいただけます。 ※シルク印刷仕上ですので、ウラもバッチリ透けてます。 ※ポールなしの旗だけのご注文もOK!オプションでお選び下さい。 ◎武将メモ:伊達政宗は、米沢藩の米沢城で生まれた。天正12年(1584年)に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。関白・豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。天正17年(1589年)には東北地方の覇権を賭けて会津の蘆名義広・佐竹義宣の連合軍と戦う。この戦いを摺上原の戦い(磐梯山麓・猪苗代町付近)という。蘆名氏はすでに関白、秀吉傘下の大名となっており、政宗が蘆名氏と戦うことは秀吉への挑戦を意味していた。黒川城を陥落させ蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配した。さらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼした。このとき政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。秀吉の小田原攻囲中である天正18年(1590年)5月には、豊臣政権の五奉行筆頭の浅野長政から小田原参陣を催促され、政宗は5月9日に会津を出立すると米沢・小国を経て越後国、信濃国を迂回し徳川領である甲斐国を経て小田原に至った。秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は政宗の本領を安堵した。慶長19年(1614年)の大坂の役(夏の陣)では大和口方面軍の後見役として参加し、道明寺の戦いでは後藤基次らと戦った。2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕えるが、寛永13年(1636年)正月頃から食事が喉につかえるといった体調不良を訴え始める。しかし前年より始まった参勤交代制に従い、同年5月1日には江戸城で将軍家光に謁見。5月21日政宗危篤。この報を受けた家光は直ちに自ら伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞った。感激した政宗は髪を整え、裃を来て3人の老中に身体を支えられながら家光を迎えたという。5月24日早朝死去。享年70(満68歳没)。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。
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