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武将ミニのぼり「大谷吉継」
■ポールサイズH36.5cmx横棒長さ12.5cm
■旗本体サイズ約H27cmxW6cm ■旗素材:テトロン地 ■ポール:樹脂製 ■ポールはお客様組立商品 ■シルク捺染仕上 ■実際の商品は多少色が異なる場合がございます。 ※屋外用のぼり製作と同じ捺染法ですので、濡れても平気。 屋外でもお使いいただけます。 ※シルク印刷仕上ですので、ウラもバッチリ透けてます。 ※ポールなしの旗だけのご注文もOK!オプションでお選び下さい。 ◎武将メモ:大谷吉継は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。越前敦賀城主。面体を白い頭巾で隠して戦った戦国武将として有名である。天正初め頃に秀吉の小姓となり、寵愛を受けた。天正6年(1578年)三木城攻めに馬廻として従軍。賤ヶ岳の戦いで吉継は長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させ、石田三成らと共に七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てた。天正13年(1585年)7月、従五位下、刑部少輔に叙任される。ここから、以後「大谷刑部」と呼ばれるようになる。天正17年(1589年)に越前国の内で敦賀郡・南条郡・今立郡の5万石を与えられ、敦賀城主となった。関ヶ原の戦いでは、吉継は三成の要請を受けて脇坂安治らの諸将を率いて美濃国に進出する。このとき吉継は関ヶ原の西南あわせて5700人で布陣する。吉継は当時業病とされていた病(ハンセン病と云われている)故に輿に乗って軍を指揮し東軍の藤堂高虎、京極高知両隊を相手に奮戦した。その後、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5000人が裏切り大谷隊に突撃したが予め小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し山へ追い返したという。しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・赤座・小川・朽木の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻撃を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継も自害した。享年42。吉継の敗北は戦場の趨勢を一変させ、西軍の諸隊に動揺と混乱を招き、西軍潰走の端緒となった。自害した吉継の首は側近である湯浅隆貞の手により関ヶ原に埋められ、東軍側に発見されることはなかった。
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