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武将ミニのぼり「黒田 孝高」(黒田如水)
■ポールサイズH36.5cmx横棒長さ12.5cm
■旗本体サイズ約H27cmxW6cm ■旗素材:テトロン地 ■ポール:樹脂製 ■ポールはお客様組立商品 ■シルク捺染仕上 ■実際の商品は多少色が異なる場合がございます。 ※屋外用のぼり製作と同じ捺染法ですので、濡れても平気。 屋外でもお使いいただけます。 ※シルク印刷仕上ですので、ウラもバッチリ透けてます。 ※ポールなしの旗だけのご注文もOK!オプションでお選び下さい。 ◎武将メモ:黒田 孝高 / 黒田 如水は戦国時代、安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名である。豊前国中津城主。秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。キリシタン大名でもあった。織田信長に仕え、播磨国の山崎に1万石を与えられ、秀吉の与力となって参謀として活躍するようになる。高松城攻めの最中、京都で本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦し、光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたと言われる。山崎の戦いでは天王山を抑え、明智軍と激しい戦闘を繰り広げた。天正11年(1583年)の秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭ったが、奮戦し守り抜いた。天正11年から13年頃に、孝高は高山右近らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた。しかし、この天正15年(1587年)7月に秀吉がバテレン追放令を出すと高山右近らがこれに反抗して追放される中、孝高は率先して令に従った。家督を譲った後も、如水は秀吉の側近として仕えた。天正18年(1590年)の小田原征伐では小田原城に入って北条氏政を説得し、無血開城させる功績を立てた。関ヶ原の合戦の後、家康から勲功第一として長政が筑前国名島(福岡)52万3000石への加増移封となった。その後は政治に関与することなく隠居生活を送った。慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。
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